2007-01-03
所感と初感? NO 1736
銭湯に行くと、お気に入りの「温めの湯」が酒湯だった。1.8リットルの酒パックが10本ぐらい並べてある。銘柄は「鬼ころし」と「太助船(たすけぶね)」だった。
整骨院の正月休みが応えている。腰から肩と腕の痛みだが、ちょっと無理をしたら右肩まで痛くなり始め、銭湯の電気風呂で時間を掛けて温めてきた。
顔馴染みの人達と会うが、「おめでとう」とお声を掛けられても「今年もよろしく」程度でお返しをするに止める。昨年に担当させていただいたお客様もかなり来られているからだ。
自宅に親戚の1人がやって来て共に食事をした。2階の居間の寒さに参ったようで、3階から櫓炬燵を運んできてセッティング。夫婦で「これはいい!」とガラスのテーブルを移動させた。
最も歓迎して喜んだのは2匹の猫、初めは恐る恐ると遠目に警戒していたようだが、一度入ったら出て来ない。しばらくして、ゴロンと寝転んでいるところへ足を突っ込んだら引っ掛かれた。
自分の家なのに、こんなコタツがあったとは知らなかった。随分昔に憶えている赤外線タイプとは全く異なり、中でファンが回っているが、それが何やら怪しく感じるのは時代遅れの年の所為だろうか。
そう言いながらも心地良く、好物のお餅を食べ過ぎ、そのまま寝転ぶとは行儀の悪い話。肩に何かを掛けなかったら風邪引きの危険性がアップするように思うので気をつけよう。
加盟する協会のメンバー達が年末年始を問わず「ご不幸」のお客様への対応に追われている。塾生達も活動を始めているよう。彼らのHPやブログを訪問しながら今年が動き始めたことを知るが、私も頑張らなければならない。
「華甲」を迎えても「下降」はしない。命終の時まで上昇するつもりで研鑽をしよう。
周りが動いていると感じる前に、時間が止まらずに動いていることを知らなければならない。死と時間は誰にも平等に訪れる。寿命の長短は神仏のみぞ知るところだが、それらは知識と知恵によって多少は永らえることも確かである。
そこに生まれる言葉に「どう生きた」かではなく「どう生かされたか」ということがある。
19 才時の交通事故で奇跡的に助かった時点から「生かされている」と、ずっと思い続けてきた私の歴史。昨年の春に手術した病気、それを自身で発見するに至った プロセスにも不思議を感じている。だからこそ「他人のために」ということに使命感が生まれる。新年を迎えてから3回ほど善意の行動をした。内容は恥ずかし くて言えないほどささやかなことだが、相手の人達から「有り難う」のお声を頂戴した。
齢を重ねると誰もがそんな行動になるということも言われている。それらは過去の人生に於ける懺悔と言えるかもしれないが、この世に生まれて「有り難う」と言われることは人としての目に見えない勲章で、きっとあの世で光り輝くと信じようではないか。