2007-06-07
瞬間という言葉? NO 1883
23時過ぎに大分県で震度3の地震があったそうだが、身体に感じない地震が、毎日何百回と日本全国で発生しているとは恐ろしい事実であり、少しずつパワーを分散して大地震にならないように祈るばかりである。
お通夜でのご導師のお言葉、そこで故人が昨号に書いた病気でご急逝されたことを知り、この病気の恐ろしさを改めて再認識することになった。
先月、あるお年寄りのご葬儀を担当申し上げたが、その方は、起きてこないので「おかしい?」と起こしに行ったら亡くなっておられたというもの。
「通夜ぶるまい」の席で弔問者の方々から「結構な往生だ。肖りたい」というお言葉も出ていたが、そんな突然の死は決して歓迎されるものではなく、本人と家族の両方に「覚悟」というプロセスがあることも大切である筈だ。
世話を掛けずに逝く、それはそれで歓迎される考え方もあろうが、葬送という儀式を終えてから気付かれるのは、やはり終焉の「言葉」と「命の灯火」が消える瞬間の確認であり、それが何よりの救いとなるとも言えるのである。
「死は前からやって来るものではなく後ろからやって来るもの」という仏教の格言を過去に書いたが、救急車の出動回数の現実や救急医療の現場の様子をテレビで観ると、改めてその言葉の重みを感じ、日常の身体チェックの重要性を考えさせられるではないか。
世間に「医者の不養生」という言葉があるが、それに反して我々のように葬儀に従事する立場にあっては、自身の身体に対して至って神経質な連中が多く、 <ちょっとおかしい!?>と感じたらすぐに検査を受けるという行動率が高く、その背景には人の死の儀式の光景に接しているからだと思える。
医師は「ご臨終です」で見送るケースが多く、家族が遺族になってからの姿、そして悲嘆に関する後日談などの体験も少なく、その違いが上記の対照となってい るような気がするが、ある著名なカウンセラーが「伴侶を喪って、初めて本物のカウンセラーになった」と語った事実もあり、ここにも「体感に勝るものなし」 という教えが見える。
「死が悲しいのではなく、それまでの思い出が悲しくさせる」という考え方もあるし、この世に人として生まれた以上、 少なくとも自身の命を大切に「いとおしく」思い、絶対に「厭うしい」と思わないで欲しいものだし、小さなことでもいいから、他人に何か役立つことのひとつ でも出来たらと考えたい。
そんなことからすると、他人を傷付けたり命を奪うことがどれだけ悪業なのかは歴然で、殺伐とした社会の恐ろしさが地獄に見えて来る筈である。