2007-07-18
ふと、思ったこと NO 1921
16日の夕方、奈良県を震源地とする地震があったが、23時過ぎに京都府の沖合いを震源とする地震も発生し、京都の周辺では大きな揺れがないのに遠く離れた北海道で震度4を計測されたという不思議な事実に驚いた。
ネットで地震について調べてみると、そのメカニズムは種々様々。はっきりと理解出来たのは、我が国が世界一の地震国だということだった。
体感出来ないような「微震」というのだろうか、それらがひっきりなしに発生している現実に恐ろしさを感じたが、改めて地下鉄の利用と地下街をウロウロすることを避ける気になってしまった。
病的なほど「臆病」な性格の私、地下に居て地震による崩壊だけではなく「水」に対する恐怖感が高く、隅田川や道頓堀の水が迫ってくるイメージだけで震えてしまう。
死を迎える時、窓から「空」が見えることだけは最優先条件、出来たらビル街ではなく緑いっぱいの高原にある病院が理想である。
一般の人達への講演で提起する問い掛けがある。「皆さんが『死』を迎える際の情景を思い浮かべてください」「それは何処ですか?」「その時、傍に居る人は 何方ですか?」なんて言うと会場の雰囲気がコロッと変化する。そこで死を迎える瞬間ぐらい「贅沢」な発想を考えなさいと提案している。
今回の新潟の自身、商店街を歩いていて亡くなった人もあったし、道を歩いていて倒れてきた家の下敷きで亡くなった人もおられた。
災難とは誰にも平等に訪れる危険性があるもの。今、自身が生きていることに幸運を感じ、何より感謝の合掌をするべきとも言えるだろう。
横断歩道にも危険がいっぱいあるし、歩道だって安全の保障はない。ビル街で地震に遭えばガラスの雨の洗礼を受けるだろうし、乗っている電車が脱線することも常識の世界。予想もしなかった高速道路の横転や崩壊だって起きている。
海岸線を走る道路や線路の多い我が日本、トンネルの数だって半端じゃない。だからこそ、朝に目覚めたら感謝をするべきという思い。それが宗教の原点だろうし、真の宗教心があれば、就寝時にその日の出来事に感謝と謝罪をする筈だ。
何の宗教を信じてもよい。自分ではなく他人のために祈りを捧げるのが正しい宗教。仏教には「奪い合いから与え合いの世界へ」という教えがある。
中学生の頃に聞いた落語の「まくら」で<うまい!>と思ったことがあるが、そのことを、この仕事に従事してから数人のお寺さんの説教でも聞いているし、今は亡き高僧の講演でも拝聴した次のことだが、誰もが一度は耳にされているだろう。
「掌を合わせたら『しわ』が合って『しあわせ』で、手の甲を合わせたら『節』が合うことになって『ふしあわせ』なのです」
犠牲者の皆さんのことを心に抱き、今日あることに手を合わそう・・・・合掌