2007-12-18

祈りの姿から  NO 2067


 今日の銭湯は賑やかだった。忘年会帰りだろうか、建設会社らしい若者達がいっぱい。耳に入る彼らの会話に若いパワーを感じてきた。

 ブルーの湯の中で半身浴、黙想するような姿勢でいると何とも言えない心地良さ。そこにリラックスの世界に包まれる自分があり、シャワーや湯を被る音も気持ちよく聞こえて来る。

 啄木ではないが、じっと手を見ると<あれっ!?>ということに気付いた。左の腕に小さく変色しているところが2箇所ある。それは過日に受けた風邪の点滴の跡。少し洩れたいたようだった。

 佐世保の事件、献花用の机にいっぱい花が供えられている。そこで多くの人達が手を合わせて祈っている光景があったが、他人のために手を合わす姿は美しいもの。

 もうすぐ新年を迎えるが、神社仏閣での初詣。そこで自身の入試や就職試験の合格を祈る人もいるだろうし、一方に他人の病気の快方を祈る人もあるだろう。

 一日の終わりに無事故でしたと感謝をし、一日の始まりに無事故でありますようにと祈る姿勢も素晴らしいこと。人生とは始まりと終わりがあるが、すべては1日の「積み」重ね。それが「罪重ね」にならないようにありたいもの。

 通夜や葬儀で手を合わせる姿を目にするが、それは故人の冥福や残される遺族の幸せを祈るもので美しい光景である筈。

浄 土真宗系で「永眠」「冥福」「祈る」なんて言葉は避けるべきだが、配達されて来る弔電の大半に「ご冥福」という言葉があって気を遣い、中には「浄土真宗の 言葉で表現を変えるように」とご指導を受け」「お浄土へとご往生」「お念仏にてお偲び申し上げましょう」で、喪主さん側のご了解を得てからそうするケース が日本のあちこちで行われていることも知りたいもの。

 この弔電に関する問題は、その地の慣習によって左右され、正に司会者泣かせの代物として難渋しているひとつである。 

「導師が下がってから」「導師の入場前に」など、式次第での組み込みも地域性によってはバラバラで、時には到着した数百通のすべてを代読しなければならない地域もあるから大変だ。

 時代がどんどん進化している。無駄を省こうという社会の潮流の中、お通夜や葬儀で改革をすべきことは山ほどあるが、どんな時代になっても、「大切な方を喪った」際の悲しみに変化はないことだけは忘れないように考えたい。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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