2009-04-07
??00分の1理論? NO 2388
今日も朝一の発声リハビリは快調、やはりオシャベリの後は難しいことを実感。先生がご用意してくれたお茶を時折に飲みながらの発声、結びは「何か歌を」ということから「海」を歌ってきた。
終わって自室に戻るとすぐに次のOTの先生がやって来て、「リハビリ・ルームへ」と言われて移動、テーブルのある席で手や腕の機能チェックが行われた。
午後のPTは夕方に掛けての時間、あちこちの筋肉補強の運動が済むと「歩きましょう」と、歩行器も杖もなしで廊下を半周、そこから「階段に挑戦です」と扉 を開けるところから練習が始まって、取り敢えず手摺りを支えに踊り場までを往復。降りる際の恐怖感は初めて体感するものだった。
さて、見舞いに来てくれた近くの女性があることに強い抵抗感を抱き、怒りの思いぶちまけたので慰めておいた。
その問題とは、彼女の家のポストにある葬儀社の宣伝プリントが投函されていたから。所謂「ポスティング」というものだが、冠婚という文字のある冠婚葬祭互助会の宣伝にさえ腹立たしいと思われるそうなので、葬儀社のポスティングに対する抵抗感は想像以上に強いものだった。
もしも私のように入院している家族がある家に投函されたらどうなのだろう。危篤状態だったら尚更だし、これから手術をされるというようなケースにはあまりある抵抗感が生じる筈だと推察する。
私の葬祭業に関する哲学の中に「百分の一理論」というものがある。それは、100人の中に一人でも気分を害されると思われることを行わないという考え方で、葬儀社のポスティングとは「葬儀」をビジネスと割り切る冷たい発想の葬儀社だと分析している。
葬祭業者向けの講演で、電話のベルをテーマに提起したことがあった。それは「我々葬祭業は、果たして何回目のベルで出るべきか?」というもので、空腹で食 堂やラーメン屋さんに電話をしたら一回目が有り難いが、我々の場合、一回目なら「人の不幸を待っていた」との誤解も生じるだろうし、何回も放置していたら 「人が不幸を迎えて電話をしているのに!」と怒りが生まれてしまう。そんなところから「4回目」で出る職業と提案したわけである。
私の葬儀に対する思いは、弊社にしか不可能な葬儀を提供申し上げること。それをご体感くださった参列者の皆さんが、遠方からでも「シーン」という葬儀式場を選択くださること。そのご期待に応えることこそプロの仕事の領域との強い信念を抱いて実践をしている。
葬儀は、はっきり言って、担当する葬儀社によって全く異なるのが常識。葬儀社の発想こそ非常識とい言葉もあるが、非日常的なこと故に、深くお考えにならないというのが現実。
お通夜や葬儀を終えた時、「ここでするべきだった」とのお声をどれだけ耳にしたことだろうか。葬儀、それは、絶対に後悔をさせない究極のサービス業との認 識が大切なのであり、葬儀だけの宣伝のために、ポスティングを発想する葬儀社とは異質であるとご理解願いたいものである。