2009-05-05
思い出から NO 2411
東京大学の教授が「新入学生に読ませたい本」として100冊を推薦、その中にドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」が入っていたのを憶えている。
ドストエフスキーの最期の作品で、長編で難解なところから読む人は少なく、私も青春時代に映画化された作品を観なければ読むことはなかっただろう。
数年前、そんな作品の新訳が登場して話題となり、かなりの売り上げとなったそうで驚いたが、しばらくすると「誤訳」について問題が生じていた出来事もあった。
昨号で子供達の病棟のことについて触れたが、そこで思い出すのがこの「カラマーゾフの兄弟」に出てきた言葉、「神は存在しない・・世界中に泣く子供がいるではないか」である。
だからこそ「神仏が必要」との反論もあるだろうが、世の中に幸せでない不幸な人達がいっぱい存在することだけは確かで、日々のニュースには不幸な人がどんどん増えていることばかりが目立って多い。
エ リート層は伝統文化への回帰 庶民は古くからの風習への帰依 社会道徳が強まれば和諧(調和のとれた)の環境社会という言葉もあるが、伝統文化、古くから の風習の代表的な通過儀礼だった「葬儀」でさえ「直葬(直送)」や家族葬が潮流になってしまい、多くの宗教者達が「信じられない!」と落胆され、世の中の 恐ろしい流れに問題提起の声さえ出てきた昨今である。
それらは高齢社会という背景に因しているかもしれないが、社会の一般的な声として強いのが「無駄省き」であり、義理の参列者もその対象になった感があるようだ。
風習の象徴とも言うべき「檀家制度」さえ無視されるケースも増え、一部の社会学者が「随分前から檀家制度の崩壊が始まっている」との現実を分析発表してい たが、葬儀というものの中で重視したい「命の伝達」が軽視される現実は寂しく、それは悲しみの感情を薄れさす恐ろしいことのような気もしている。
数年前のことだが、阿倍野区にある大阪市立葬祭場「やすらぎ天空館」でのある御通夜、遅くに弔問に来られた有名なタレントさんが女性スタッフと話しながら私の方を見つめており、しばらくすると何かを確認してから頷いていたようだった。
喪主さんと打ち合わせを終えた時点にはも帰られた後だったが、対応していた女性スタッフに確認してみると「あれは、司会で有名な社長だよね。あの人は怖い人だ。叱られたことがある」と仰ったそうで、そこで思い出したのがあるテレビ番組でのやりとりだった。
その人物は、丁度CMに入ったところで、「私は誰にも参列されたくないから葬儀無用論者だ」と言われ、「ファンに支えられて有名になって、勝手に一方通行 みたいな状態で社会から『さようなら』をするなんて絶対に許せない。それなら今すぐ廃業するべきだ」と反論したという出来事だった。
その後、その人物の先輩とある雑誌の企画で対談したことがあったが、その時、彼のことが話題になり、「彼ね、かなり衝撃を受けたみたいでね、葬儀無用論を捨てたようだよ」とのことだった。
義理的立場の参列者を省きたい心情は理解出来るが、核家族というつながりの中で、ご本人が近所の方々とどのような交流があったのかだけは知っておきたいも のだし、お世話になった方があれば感謝の言葉も必要な筈。それなくして「さようなら」には何か大切なものが欠落しているような気がしている。
しっかりとした「看取り」が出来ていれば悲しみが薄まるそうだが、悲嘆というものは葬儀が終わってから強まることも確か。そんな時に「薬」になるのが生前の思い出話で、悲しみを共有する第三者に接する「思慕感」というものが想像以上に重要なのである。
明日のリハビリは11時15分OT、14時55分PTの二つだけでSTはお休み。PTには、初めての先生のお名前が明記されていた。