2011-10-26

病の履歴  NO 2734


  松山に在住する塾生のページを訪問したらびっくり。私の写真が貼り付けてあり、病気のことが紹介されていた。この写真は「お葬式プラザ」の「プロの館」に あったもので、ハモンドオルガンの前で撮影されたもの。これを機に「生かされた証」として過去の病気についてしたためておこう。

青春時代の虫垂炎、交通事故に始まり、7回の入院体験のある私。最も短かった入院は、出張先の九州のホテルで鼻出血から救急車で土曜日に運ばれ、専門医がやって来て簡単な手術を受けて月曜日に退院した2泊の体験だが、あの時の苦しみは強烈な記憶として刻み込まれている。

 もう、あれから10年近くなろうが、50代の終盤には腹部の大手術、60代に入ってからじわじわとあちこちに変な兆候を感じ、それらが一気に表面化した恐ろしい病気にも遭遇したが、いずれも奇跡的に生還してきたのだから誰よりも「生かされている」との思いが強い。

 腹部の手術の際、担当看護師さんの誘導で手術室に入った時、自分で手術台に上ってスタッフの皆さんから驚かれた体験もあったが、いざとなれば覚悟を決められる性格そのもののような気もする一方で、それだけ単純で愚かと言えるのだろう。

 入院時のベッドの上で発信したことが過去ログにあるが、7時間の腹部手術を受けた大阪赤十字病院で、集中治療室から自室へ戻った時、壁から天井まで包装紙のように金色の鳳凰の柄に二日間も包まれていたという摩訶不思議な体験も忘れられない。

 最後に体験した入院は、受け入れ先が決まらず、救急車の中で30分以上の時間を費やしたこともあり、車内の天井を見ながら自身の終焉を本気で感じた時間でもあった。

 しかし、人間とは弱くて強いもの。あれだけ酷かった症状がリハビリを経て現在に至っているのだが、病気と寿命との異なりを改めて知らされた体験でもあった。

  救急車で運ばれた次の日から始まったリハビリ、壊れたクレーン状態にあった右手を動かすこと、座れず、立てず、歩けなくなった足をまずは立てるようにする こと。嚥下で食事が摂取出来ないので、ほんの少量のゼリーから飲み込む訓練など、思い出すだけでも辛くて厳しかった状態からの脱出は、もう受け入れという 悟りと気力しか解決策はなかったものである。

 絶対に普通に歩けるようになって帰る。そんな目標を心に、狂気の沙汰とまで言われたように、普通の患者の5倍ぐらい歩いた毎日。その甲斐あって歩けるようになった私だが、その入院中にも幾つかの奇跡みたいなことが起きていた。

 壊れたクレーン状態だった右手だが、二週間ぐらい経った頃、知らず知らずの内にスプーンを手にしており、それをご覧になったリハビリの先生が「奇跡です」と仰った時の光景も忘れられない思い出である。

  呂律の回らなかった言葉も徐々に回復。右口元から頭部に掛けてピリピリとした痛みが走っていた感じも薄らぎ、食道と気管支のコントロールがうまく出来な かった嚥下症状も何とか訓練でクリア。苦しい発声練習から会話というコミュニケーションも復活出来、残るはフラフラ感と左半身の温覚、痛覚の回復、そして 複視が楽になることだけだが、箸を手に出来る。食事を摂れる。着替えが出来る。タオルが絞れるなんて、健常者なら当たり前に出来ることがどれほど幸せなこ とかを、大好きな銭湯に行く度に身を以て痛感する体験となった。

 体験したから書けるのだが、人の体調が急に悪くのは心臓か脳の疾患。特に脳に関する疾患は「くも膜下出血」は別として、必ずと言ってよいほど前兆がある筈で、その信号を絶対に見逃してはならない。

  両手や両足の痺れが同時に来たら頚部に問題があり、左右どちらかの半身がおかしくなれば脳の疾患を疑うべき。それらを何度も体験していたにも関わらず、症 状が一気に出てきた私のケースだが、周囲の人達に「隠れ脳梗塞」のことを話して検査で発見された人が数人存在し、何れからも感謝されたことは言うまでもな い。

 さて、今日は、昨夜に弔問に行った女性の葬儀に参列。ナレーションを耳にしながら在られし日の面影を偲び、ご出棺のお見送りをしてきた。

 夜、重なっているお通夜の一方に参列。幾つか気付いたことをスタッフ達にアドバイス。曾孫さんとご一緒に撮影されたメモリアルボードの写真に、何とも言えないぬくもりを感じ、曾孫が生まれるまでこの世に存在出来たら、なんて贅沢で夢見たいな思いを抱いて帰宅した。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
携帯で下のQRコードをスキャンするか
 または
携帯に下のURLを直接入力します。
URL http://m.hitorigoto.net