2011-12-07
終焉のかたち NO 2775
「幸せ」の逆様は「不幸せ」つまり不幸であるが、この世に生を享けて体験する不幸の中で究極と言えるのが看取る人のない死の瞬間だろう。
大半の人が病院で死を迎えるが、看護師さんが見回りに来たら息が止まっていたというのも悲しいし、医師に死亡時間を推定で死亡診断書に書かれることだけはあって欲しくないものだ。
不 幸は、そればかりではない。身寄りがなく施設に入っていた高齢者が、自分の財産を後見人として選択した弁護士に全て委託していたというケースがあったが、 いざ死を迎えて施設の人が弁護士に連絡をしても繋がらず、やっと電話が掛かって来たのは二日後の夕方。その第一声が「今、ゴルフ場」だったと言うのだから 衝撃ではないか。
そして、やっとご遺体を預かっている弊社にも電話があった。弁護士曰く、「最低の経費で適当に。お骨を引き取る人もいないのでよろしく。費用は事務所へ送って」とのことだった。
故人がどれほどの財産を委託していたかは不明だが、お悔やみの言葉もなく、まるで「処理」して欲しいような口振りに怒りを抱いた出来事だった。
一方に、いい話もあった。同じケースなのに、弁護士本人が来社。残された遺産の総額をオープンにされ、その大半を葬儀費用に使って欲しいと言われたからだ。
弁護士の人柄によってこんな差異が生じるのも事実。人生にあって出会いとは幸せと不幸の諸刃の剣がある話である。
わが大阪は、全国一の生活保護者の多いところ。そんな事情からか、福祉関係のご葬儀も多く、今月に入ってからでも5軒ぐらい承ったとスタッフから聞いた。
中にはご読経の流れる中、スタッフだけが焼香をするという寂しい儀式もあるが、みんなで心ある手を合わせなさいと指導してあるので真摯に対応してくれていると確信している。
福祉関係のご不幸の場合、受注を断る葬儀社が多いのも事実。その背景には、親子だけで営業している業者では手が足りず、派遣の臨時スタッフを招聘する人件 費で赤字となる事情があり、弊社のようにスタッフが多い葬儀社に集注して来る訳で、中には弊社を紹介してくれるケースもあるので驚いているが、そんな現実 から施設の方から依頼されることも多くなって来ているみたいだ。
人生の終焉のかたちは様々。同じ身寄りがなくても、前述のような寂しい送られ方をする人もあれば、スタッフがご仏縁と考えてファミリーの一員のように焼香をする送り方もある。
最近「絆」という言葉があちこちで流行しているようだが、少なくとも、家族が存在することが幸せの基本的条件だと考えたい。
昔、ある学校の校長先生から「問題生徒達に話を」と依頼されたことがあった。生活指導の先生にも手が負えず、偶々ご親戚の葬儀に来られていた先生が私のお通夜での話しに興味を抱かれたという経緯があった。
当日、生徒達に話したのが上述のテーマ。「君達は、何歳で死を迎えると思うか? それは、畳の上だろうか、それとも病院のベッドの上だろうか? その時、 誰が寄り添ってくれているだろうか? 皆さんの伴侶かな? それとも子供達かな? あるいは孫かもしれないけど、その情景を思い浮かべてご覧」なんて話し たら、みんな静かに耳を傾けるようになり、先生方に感謝されたことを懐かしく思い出した。