2012-02-14

身近な極楽  NO 2841


 どのように「生きるか」を考えるよりも、どのように「生きたか」を考えることが重要だと教えられたことがあるが、それは、永年葬送の仕事に従事する中でご仏縁に結ばれたあるお寺様のお言葉だった。

 そこには、後悔のない人生を歩みたいという重い意味が込められているようだし、ふと、本を読んでいると、それに似通ったレオナルド・ダ・ビンチの言葉が目に留まった。

 『充実した一日が幸せな眠りをもたらすように、充実した一生は幸福な死をもたらす』

 浄土真宗の教義では「永眠」という表現に問題があるが、永久に眠るという発想からすれば、その絶対条件となるのはこの世に未練なく与えられた人生を全うし、来世に夢と希望を抱いて死を迎えることではないだろうか。

 そんなことを考えていると、数年前に法改正された「時効」の問題が思い浮かび、犯罪者が罪を償うことなく潜んでいる立場なら、間違いなく来世の存在が恐ろしいだろうと推察する。

 財を成し、名を残してこの世を去る人も多いが、この世で多くの人達を泣かせた人生なら旅立つことに抵抗感を抱かれるだろうし、最後を迎える病院の白い天井に去来することがどんなことだろうかと考えてしまう。

  数千人の人々に送られて見送られる人もあれば、看取られることもなく、また葬儀も福祉扱いで我々葬儀社のスタッフだけが見送る寂しいケースもあるが、社会 には行路病者というような、身元さえも不明という故人の存在も少なくなく、社会の背景に悲しい縮図を実感させられたことも何度もあった。

 自治体の火葬場でご遺骨が1年間保管されているが、そのまま期間を過ぎて埋葬されてしまうとは本当に寂しいこと。昨年に流行した「絆」という文字が、そこには欠片も感じられないところに哀れみを覚えてしまう。

 諸行無常の理のように、明日のことは分からない。浄土真宗系の葬儀にあって知られる「白骨の御文章」の響きが悲しく聞こえるが、それは、やがて自身に訪れるという哀れみとも考えるべきで、そこに葬儀の意義があるように思える。

 この世に極楽や天国を感じる世界はいっぱいある筈。人は、置かれる辛い環境から脱出出来た時にそんなことを体感するのだろうが、九死に一生を得たなんてことは、その究極のkととも言えるが、身近なところでは字得た身体を温める風呂に浸かることがあるだろう。

 そんなことを思い浮かべながら、今から銭湯へ行くことにしよう。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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