2013-10-11
学びたいこと NO 3425
昨日の「会長のコラム」の末文に大切な方を亡くされたご遺族が陥られてしまう悲嘆の心理について触れたが、この「独り言」のページで分かり易いように加筆しておこう。
これまでに何度か書いたことだが、家族から「遺族」と呼ばれることになると、「怒り」「不信感」「猜疑心」「判断力低下」「自責感」「絶望感」「焦燥感」などに襲われ、酷くなると「幻覚」や「幻聴」という事象に至ることも少なくない。
そんな悲嘆の心情を慰めることは簡単ではなく、誰にでも出来ることとして言われていることが「ご生前の思い出話」で、それは悲しみを共有する一歩目となることを理解しておきたい。
葬儀が終わっても時計の針は止まったまま。悲嘆に暮れられるご遺族の心の中に葬儀の情景が浮かばれることもあり、参列された方々のお顔を思い出されること もあるのだが、上述した「悲嘆」の心理分析の中に意外なことが存在しており、それがノスタルジック的な「思慕感」というものであり、参列者の方々のことを 思い出されるのもその一つと言われている。
ここで我々葬儀社が心しておかないといけないことが、この「郷愁」と「思慕感」というもので、悲しまれていた事実の目撃者として我々もその対象となるということである。
「私が悲しんでいたことを見ていたでしょう?」「あなたが私の主人の人生の生い立ちを語ってくれたでしょう」なんて思いが生まれ、その時間に戻ることが出来る立場として重要なキーワードになる訳である。
あの日から何年経っても時間は止まったまま。悲嘆から抜け出されるには想像以上に大変なもの。それは体験された人にしか理解出来ないほどのものと言われて いるが、その日を迎えられるまでの日常を取り戻されることも手段の一つで、ご主人が出勤される際にいつも履いておられた靴を磨かれたり、着用されていた カッターシャツやスーツをクリーニングに出されることもされるべきと伝えたい。
部屋の中を見渡すと、全ての家具に大切な人の姿が映り見え、この世におられない寂しさを実感されるのだから大変なのだ。
葬儀が終わってから初七日、二七日から満中陰まで法要の準備に追われることも大切なこと。親戚や友人の皆さんが来られて伺う昔話に涙を流されることも癒しの過程の重要なこと。
涙の成分は真っ赤な血液で、それが目から透明になって流れ出るまでのプロセスが心身を守ってくれるとも言われている。
大切な人を思い浮かべて手を合わされる時、人の姿が美しいと思う瞬間でもある。