2015-12-25
無理が祟ったみたい NO 4415
これまでずっと参加していた年の瀬の会を欠席することにした。夏と冬の檀家さん達の集い。いつもお誘いいただき夫婦で参加していたが、今回は2人も体調不良で欠席と電話を入れた。毎年春には団参で出掛けているが、来春には参加出来るように養生しなければならない。様々な検査を受けても原因が判明しない。1月にも大規模病院の診察予約を入れているが、今日まで「生かされた」事実に手を合わさなければならない。何度も入院したことがあるのに、いつも奇跡的に戻って来ているのだから不思議である。
これまでに多くの方々の葬儀を担当させていただいたが、忘れられない思い出となっている人物のご終焉について紹介申し上げる。それは、この「独り言」の2003年10月27日「NO 587」でも書いている方。
それは次のような出来事だった。
終(つい)の準備 NO 587
ある方が亡くなられ、スタッフが打ち合わせに走ったが、信じられないほど短い打ち合わせ時間で帰社してきた。
その事情は、スタッフが持ち帰ったプリント。そこには故人がご生前にパソコンで打たれたご自身の葬儀の企画がきめ細かく記載されてあり、スタッフ全員が驚いていた。
式場、お寺さんのご人数にお布施。供花、供物、シキミの予定者と順位も決められ、葬儀の費用の概算で締められてある。
そんな中、ご自分の不明な部分には罫線や二重丸が記載され、それらは「弊社に聞くこと」と書いてくださっていた。
委員長、受付、会計、接待などの人選もされ、「以上、委員長一任」ともあるし、代表者の焼香順位まで作られておられる完璧な企画書。
これまでに何度か拝見した企画書の中で、これほどきっちりとしたものは初めてのこと。弊社の対応が大変なことは当然のこと。細かな指示を与えておいたのは勿論のこと。メモリアルボードやビデオ編集のお写真は、お預かりした写真ブックから私が選択申し上げた。
故人は、様々な分野でご活躍、多くの役職や肩書きを持っておられたが、それらはお身体のご不調を感じられた頃からすべてを辞任され、確実な人生黄昏の到来を覚悟されていたご様子。
そんなご性格だったからこそ人望が高かったと言えるだろうが、引き際と終(つい)の見事さに感服しながら、享年67歳という惜しまれるご往生に衷心より合掌した。
あれは、夏の暑さが始まる頃だった。ご本人からお電話を頂戴し、20分ほどお話をしたが、その大半がご本人の葬儀について。上述の企画書は、おそらくその電話の以後からおつくりになったと拝察するが、その電話は病院の病室から掛けられたもの。
その会話の中で、「看護師さんたちにも、はっきりと伝えました。私が死を迎えたら、絶対に病院出入りの葬儀社の手に触れさせないように」というのがあり、「電話をしたら飛んで来てくれ」との強いご要望があった。
ご家族からご訃報が入ったのは午前1時過。きっと精一杯の看護を尽くされたからだろうが、ご本人が立派なご終焉を迎えられたご様子が伝わってきた。
お寺の本堂で行われた通夜、そこには多くの弔問者が参列されたが、まだ幼いお孫さんたちが椅子に座り、追憶ビデオに登場された映像を見られた時、「あっ、おじいちゃんだ」と言われたひとことが印象に残っている。
今日の写真は東北新幹線の一ノ関駅で乗り換えてドラゴン線で気仙沼へ向かう時、珍しい駅名に興味を抱き、帰阪してから調べたら「猊鼻渓(げいびけい)」という峡谷の観光地だった。