2024-08-17

懐かしい  NО 10110

甲子園球場は47000人の規模だが、過日のオリンピックの会場となったパリのスタジアムは77000人だったのでそのスケールの大きさに驚いた。

そのスタジアムで最終日に槍投げで金メダルに輝いた北口選手の中継を観て心から拍手を贈った。

パリオリンピックでベルサイユ宮殿の前に設けられ馬術競技で日本選手が銅メダルに輝いたことも素晴らしかった。

過去の歴史で1932年のロサンゼルス大会で西竹一選手が金メダルの輝いたことが知られる。彼はバロン西と呼称される陸軍中尉で、硫黄島で戦死されているが、洞窟に潜んでいた日本軍に向かって「バロン西はいるか?」と米軍から呼び掛けられても名乗り出ることもせず、戦死されたことを小学校の5,6年生の授業で習ったことを憶えている。

卓球の戸上選手とダブルスのペアだった篠塚選手が愛知工大の選手だったことを知って懐かしく思い出したことがある。それは長谷川信彦選手のことで、わたしと誕生日が二日違いで、名電高校時代にインターハイで優勝し、愛知工業大学へ進み当時では珍しかったシェークハンドの攻撃型で、ロビングの素晴らしさは有名だった。

私が彼のプレイを目にしたのは現在の馬場町にあるNHKの裏側にあった中央体育館で行われた大阪選手権で私はBESTに残れなかった大会だったが、長谷川選手が当時の大学新人選手として知られる人物との試合を観てその異次元の強さに衝撃を受けた。その新人選手とは大阪府知事杯で対戦して私が勝利した歴史があるが、その選手を全く寄せ付けない異次元のレベルに館内にはどよめきが起きていた。

長谷川選手は群馬県に移られて卓球場を開いておられたが、トレーニングの最中に大木の枝が折れ、その下敷きになって亡くなるという悲報があって衝撃を受けた。それは2005年の11月7日のことだったが、人の世の出来事の気まぐれに涙したことを憶えている。

当時も中国が別格に強かった。まるいペンホルダーを鷲掴みにする握り方で、当時のナンバーワンは「荘則棟選手」だった。

名古屋で国際大会が行われた時、中国の選手の乗ったバスに間違ってアメリカ選手が乗り込んでしまい、握手するなんて考えられなかった関係の中で、「荘則棟選手」が握手をされ、持っていた絵葉書をプレゼントした逸話が語り継がれており、それが帰国されてからしばらくしてから国交が始まったピンポン外交のきっかけとなっていた。

ユーチューブとは優れものだ。長谷川選手と「荘則側選手」との対戦があって感動したが、「荘則棟選手」は文化大革命のターゲットになってしまい晩年は寂しい余生となったみたいでお気の毒だったが、その卓越された攻撃の素晴らしさは多くの卓球ファンに語り継がれている。
久世栄三郎の独り言(携帯版)
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